釣魚島に対する主権を示す動かぬ証拠「記事珠」 24日から北京で展示
2012/09/24
 

   北京の保利芸術博物館で24日から「釣魚島の主権を示す動かぬ証拠及び国宝大展」が開催されている。開催は10月8日まで。その中でも、釣魚島に対する中国の主権を示す動かぬ証拠である「記事珠」が、特に人々の注目を集めている。

   清代の嘉慶年間の墨跡(原本)「記事珠」には以下のことが記されている。嘉慶13年(808年)、大清王朝は琉球国王を封じる聖旨を発した。同年2月18日、正使斉鯤(太史)、副使費錫章(侍御官)、学者沈復(太史司筆硯)らが北京を出発した。同年閏5月2日、かれらは福建を出発、2隻に分乗して琉球王国に向かった。

   「記事珠」は次のように記している。5月11日、一行は五虎門を出発した。東を一望すると、無限の海が広がり、海水は深い緑色をしていた。5月12日、淡水を通過した。5月13日の辰の刻、「釣魚台が見えた。筆立てのような形をしていた」。14日早朝、姑米山がかすかに見え、琉球の境界を越えた。15日の午の刻、はるか彼方に「みずち」のような形をした琉キュウ(扎の部首を虫に)(琉球の古い名称)が見えてきた。

   関係者は、この部分の記載は、中国が釣魚島に対して主権を持っていることを示す動かぬ証拠である、との考えを示した。文字記載によると、沈復らは嘉慶13年5月13日の辰の刻に釣魚台(釣魚島)を見、そのあとで天后(媽祖)を祭り、黒水溝(中流海溝)を通過し、14日早朝、姑米山を見ながら琉球の国境を越えた。

   国家文物鑑定委員会の傅熹年主任委員は次のような考えを示した。この記述は、釣魚台(釣魚島)が当時から中国の海域内にあったことを物語るもので、琉球の国境から1日の航行距離にあったが、琉球にも、日本にも属していなかった。中国人が釣魚島に対して主権を持っていることを示す文字記載が記している嘉慶13年(1808年)は、日本が発表している「古賀辰四郎」が釣魚島を発見した1884年より76年も早い。